早春の鎌倉観光 安養院 [社寺仏閣]

すぐそこに潮の香りを感じる寺院、安養院。

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安養院は、神奈川県鎌倉市大町にある浄土宗の寺院で、山号は祇園山。寺号は長楽寺です。
本尊は阿弥陀如来。千手観音(田代観音)を安置し、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所第3番札所でもあります。

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 この寺の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係しています。
 長楽寺は、1225年(嘉禄元年)北条政子が夫である源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷(はせささめがやつ、鎌倉文学館付近)に願行を開山として創建した寺と伝えられています。
 山号を祇園山と号し、律宗の寺院であった。長楽寺は1333年(元弘元年)兵火により焼失し、大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。
 なお、安養院は政子の法号から取られたものである。一方、田代寺は1192年(建久3年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷(ひきがやつ)に建立したのに始まると伝えられ、江戸時代になって安養院に統合された。千手観音は田代寺にあったもので、田代観音とも称されている。
 本堂内には寺の本尊の阿弥陀如来坐像(室町時代)の背後に札所本尊の千手観音立像が安置されています。

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境内一円を見回して、よし次!と思った瞬間、何かを感じました。
境内の裏は?どうなっているのだろう・・・と、いつもは全く思わない面倒臭がりの僕ですが、今回は何故か足が向きました。

で、境内の裏に行くと・・・

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国指定の重要文化財:石造宝篋印塔~徳治3年(1308年)が安置されていました。

ビックリデスよ!ビックリ!本当に見落とすところでした。
いやぁ、幸先の良い発見です。


余談

ここで一緒に巡っていた人が話し出しました。

「ここはお賽銭は1000円札は駄目だって」

どうしてと聞き返すと、彼は指差しました。指差す先には看板が

千社札お断り

「????・・・、 あれは千円札ではなく、千社札だよ」

「千社札?」

「そう、千社札。千社札はお寺や神社に貼る札の事、ほら、あそこ!」と言って、ここの本堂の軒下を指差して続けました。
「江戸時代に流行ったらしいけど、最近はモラルの低下でこんな感じで禁止する寺院が多くなっているみたいだね」

・・・・
・・・・・

わはははっはははははっはは (^^)


と、笑



つづく。



早春の鎌倉観光 教恩寺~九品寺 [社寺仏閣]

今日ご紹介するのは、2箇所の寺院さんをご紹介します。

最初は昨日ご紹介した牡丹餅寺こと常栄寺から歩いて5分~10分くらいの場所にある教恩寺。

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山門の十六羅漢の彫刻が見事な教恩寺(時宗)は、一ノ谷の合戦で敗れ捕らえられた平清盛の子で重衡に縁のある寺。
 重衡は、南都焼討ちによって、奈良の東大寺や興福寺を焼いた武将。
 「一ノ谷の合戦」で捕らえられ鎌倉に来た際に、源頼朝より一族の冥福を祈るように阿弥陀像を与えられたという。その像が教恩寺の本尊で、運慶作と伝えられている。

 もともとこの地には、光明寺末の善昌寺があったが廃寺となったため、1678年(延宝7年)、貴誉上人によって光明寺境内にあった北条氏康建立と伝わる教恩寺が移築されたといわれている。
 その後、浄土宗より時宗に改宗したと考えられる。

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開山は知阿で、開基は北条氏康、本尊は阿弥陀如来三尊です。

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そこから歩くこと5分~10分のところに位置する寺院、九品寺。

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九品寺
神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗の寺院。山号は内裏山。本尊は阿弥陀如来。この寺は、新田義貞が鎌倉幕府滅亡後に北条方で亡くなった者の菩提を弔うために、1336年(建武3年)風航順西を開山として創建したものと伝えられています。

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神奈川県指定文化財:石造薬師如来像
鎌倉市指定文化財:阿弥陀如来立像

これが遠めでしか拝めなかったのですが、立派なご本尊様でした。本来ならお願いして見たかったのですが、法要の最中でお願いし辛い感じでした(^^)

ってな、事でまた次回。






早春の鎌倉観光 常栄寺【牡丹餅寺】  [社寺仏閣]

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日蓮宗慧雲山常栄寺は、慶長十一年(1606年)創建で、開山は日詔上人です。

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 常栄寺は、日蓮が龍ノ口(藤沢市片瀬)の処刑場に護送される途中、この地に住んでいた「桟敷の尼」が、「胡麻入りのぼた餅」を捧げたという言い伝えから、「ぼたもち寺」と呼ばれている。
 その後日蓮が奇跡的に処刑を免れたことから「頸つぎのぼた餅」という逸話が生まれ、「御首継ぎに胡麻の餅」といわれるようになったという。

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 常栄寺の創建は1606年(慶長11年)、寺号は「桟敷の尼」の法号「妙常日栄」にちなんだもの。日蓮が法難に遭った9月12日には、「ぼたもち供養」(龍口法難会)が行われているそうです。

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余談ですが、ここの住職の好物は何だと思いますか?
NHKの旅番組でこの住職が答えたのは・・・・

ナレーター
「では、最後にご住職の好物は何ですか?」
ご住職
「塩大福」
ナレーター
「牡丹餅ではなく、塩大福ですか?」
ご住職
「そう、どうも牡丹餅は甘過ぎて・・・(^^)」

てな、やりとりでした。
その時、住職がカメラマンさんにこっちこっちと言って、撮影させたのが門の右下
門の右下には何と書いてあるかというと

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小さく、常栄寺と書かれていました。
この謙虚さが常に栄える寺院の由縁・・・ってな、事を話していました。

いやぁ、面白い寺院さんでした。



早春の鎌倉観光 妙本寺 ( 2/2 ) [社寺仏閣]

妙本寺

前回の続き。

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境内を進み、二天門に辿り着くと

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二対の仁王像が奉納されています。

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二天門の梁には龍の彫物。

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水取舎で清めて振り返ると

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日蓮聖人の銅像がドカーンと待ち構えています。その先が祖師堂です。

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祖師堂

寺宝

十界曼荼羅 
弘安3年3月(1280年)揮毫。日蓮が池上宗仲邸(現在の本行寺)で臨終する際に枕元に掛けられたとされることから、「臨滅度時の御本尊」と通称され、日蓮宗の宗定本尊とされる。「蓮」の字の最終画が蛇が這うようにくねっていることから、「蛇形本尊」とも称される。この他、日蓮真筆の曼荼羅2本(弘安3年4月、建治元年(1275年)揮毫)が伝来している。また、妙本寺二世日朗の曼荼羅(正和2年(1313年)揮毫)、妙本寺三世日輪の曼荼羅2本(観応2年(1350年)、康永2年(1343年)揮毫)、日像の曼荼羅(暦応3年(1340年)揮毫)も伝来する。

釈迦如来像 
竹御所の供養堂であった新釈迦堂にあったもの。新釈迦堂は天保年間に祖師堂左手に移築されたが、関東大震災にて倒壊し、今日では霊宝殿となっている。

木造日蓮聖人像 
祖師堂に安置。

銅造雲版 
国の重要文化財。

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次は常栄寺へと向かいます。ここもちょっと有名な寺院さんです。



早春の鎌倉観光 妙本寺 ( 1/2 ) [社寺仏閣]

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妙本寺(みょうほんじ)は、神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山(霊跡寺院)で、山号は長興山。

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 妙本寺のある谷戸は、現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷があったそうです。
 比企能員は、源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の乳母・比企尼の養子にあたり、妻は源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻となり頼家の子・一幡を生むなど、源氏とは深い関係を持つ事になります。
 このため、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏とは対立するようになった。1203年(建仁3年)頼家が病気で倒れると、次の将軍を誰にするかで、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と、若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の間で争いが起きてしまいます。能員は頼家と北条氏討伐を謀るが察知され、名越で殺害され、比企一族は比企谷の谷戸(小御所)に篭って北条氏らの軍勢と戦うが敗れ、屋敷に火を放って自害してしまいます(比企能員の変)。
 若狭局は、池(蛇苦止の池)に身を投げて自害し、一幡も戦火の中で死ぬという哀しい言い伝えの残る寺院。

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 悲劇はまだまだ続きます。

 能員の末子・能本は生き残り、後に京都へ行き、順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると、佐渡まで供をしたそうです。
 彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘)が4代将軍九条頼経の妻になったことから許されて鎌倉に帰ってきます。
 1234年(文暦元年)竹御所は出産時に死去してしまいます。自仏像であった釈迦如来像を祀るため、新釈迦堂の建立を遺言する。
 1235年(嘉禎元年)新釈迦堂が建立されます。竹御所は新釈迦堂のその下に葬られました。
 1243年(寛永元年)仙覚が新釈迦堂の住持となります。
 1253年(建長5年)能本は日蓮に帰依します。
 1260年(文応元年)能本は菩提を弔うため、屋敷を献上し法華堂を建立する。

 これが、妙本寺の前身である。以後、日蓮宗の重要な拠点となっていきます。
 池上本門寺と当山は両山一首制で一人の住職が管理していました。江戸時代には池上本門寺に住職がおり当山は司務職として本行院の住職が管理していました。
 1842年(天保13年)天保の改革にて廃寺となった感応寺の厨子を移設する。両山一首制は1941年(昭和16年)まで続きました。
 江戸初期の弾圧までは不受不施派の末寺を多く抱え、26寺で末寺の68%を占めていたそうです。


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方丈
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本堂
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で、次ご紹介するのが二天門です。
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朱色に塗られた二天門(仁王門)が、静寂に包まれた境内に一際鮮やかに浮かび上がっていました。

いよいよ祖師堂へと進んできます。



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