京都・奈良 社寺仏閣巡り 8 六波羅蜜寺 [旅行]

前回のつづき。

智積院を後にして向かった先は
lento_20140102142322.jpg
六波羅蜜寺。
lento_20140102141927.jpg
lento_20140102141950.jpg
国宝
木造十一面観音立像
平安時代。10世紀頃の作風を示し、伝承のとおり、951年に空也が創建した西光寺の本尊像であると思われる。本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏である。像高258cmの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一材から彫り出す一木造とする。表情は温和であり、平安前期彫刻から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例である。歴史的にも重要な作例として1999年、国宝に指定された。

重要文化財
本堂
木造空也上人立像
鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。僧侶の肖像彫刻は坐像に表すものが多いが、本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。六体の小像は針金でつながっている。
木造僧形坐像(伝・平清盛像)
鎌倉時代。平清盛とされる経を持った僧形の像である。
木造地蔵菩薩坐像
鎌倉時代。銘文はないが、寺伝、作風等から運慶作とされる像。運慶一族の菩提寺である地蔵十輪院から移されたとする伝承がある。理知的でさわやかな表情、切れ味するどい衣文などから運慶作とする説がある。
木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像
鎌倉時代。日本仏像彫刻史上もっとも有名な仏師親子の肖像彫刻とされている。精悍な伝・湛慶像と、老いてまだまだ盛んな巨匠といった風貌の伝・運慶像とそれぞれの個性が表現されている。前記の地蔵菩薩坐像とともに地蔵十輪院に伝わった。
木造四天王立像
平安時代。本尊の十一面観音像とともに、空也による創建期の遺作である。宝物収蔵庫には4体のうちの持国天像と増長天像が安置され、残りの広目天像と多聞天像は京都国立博物館に寄託されている。4体のうち、増長天像のみは鎌倉時代の補作である。
木造薬師如来坐像
平安時代。天台様式がみられ、中信による中興時の像と考えられる。
木造地蔵菩薩立像
平安時代。六波羅地蔵堂に安置されていた。左手に頭髪を持ち、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれ信仰されている。『今昔物語集』にもこの像に関する説話が取り上げられるなど、古来著名な像である。
木造弘法大師坐像
鎌倉時代。快慶の弟子長快 (仏師)の作
木造閻魔王坐像
鎌倉時代
木造吉祥天立像
鎌倉時代
その他、重要有形民俗文化財として、泥塔、皇服茶碗、版木、萬燈会関係用具二千百余点などがある。

lento_20140102141910.jpg
lento_20140102142333.jpg
lento_20140102142355.jpg
ここのお寺、個人的にはちょっと苦手な空気が流れていました。
稲穂は無料でもらえますが、その後の稲穂に付ける米俵だとか御札とかで結局それなりの値段へ・・・。
自分でデコレーション出来るのも良いかも知れないけど、お守りとか御札とかそんなものじゃないと思うのですよ。
なんとなくお金の臭いがプンプンするお寺って好きじゃないのですよ。
しかもここの有名なお茶『皇服茶』も有名らしいのですよ、その昔、空地が病人にお茶を振舞ったのが始まりらしいのですが、お茶にもしっかりコーヒー以上の値段を付けて、救急搬送場所みたいなテントに連れ込んで一杯350円とか300円を徴収・・・。
空地は病人に振舞ったからこそ意味があるのであって、今はもう・・・・って感じで嫌な感じでした。
ココだけだったと思います、こんな気持ちになった社寺仏閣は。だから、近隣の学校の建て替えいちゃもんなんか付けるのでしょうね。もうお寺の雰囲気に出まくりでした。

まぁ、気分を取り直してまた次回(^^)

つづく。


京都・奈良 社寺仏閣巡り 7 豊国神社 [旅行]

DSC_0179.jpg

豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興された。
主祭神の居城があった大阪市の大阪城公園(中央区)や滋賀県長浜市のほか、出身地の名古屋市中村区などにも豊臣秀吉を祀る豊国神社が存在している。

DSC_0181.jpg
lento_20140102135555.jpgDSC_0182.jpg
DSC_0185.jpg
国宝 
唐門 元南禅寺金地院にあったもので、豊国神社再建に当たって金地院から移築された。崇伝が幕府から二条城の唐門を譲り受けたもので、その前は伏見城にあったとも伝える。
重要文化財
紙本着色豊国祭図 六曲屏風一双 狩野内膳筆
黄地菊桐文付紗綾胴服
唐櫃 3点(桐唐草蒔絵、桐鳳凰蒔絵、桐薄蒔絵)
鉄燈篭 辻与次郎作
薙刀直シ刀 無銘 伝粟田口吉光(骨喰)(ほねばみ)
DSC_0187.jpg
DSC_0190.jpg
DSC_0191.jpg
lento_20140102140146.jpg

つづく。

京都・奈良 社寺仏閣巡り 6 智積院 [旅行]

前回のつづき。

DSC_0165.jpg
DSC_0164.jpg
智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院で、山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。
本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院があります。

DSC_0169.jpg

DSC_0170.jpg
DSC_0171.jpg
国宝[編集]
大書院障壁画 25面 長谷川等伯・久蔵父子の作。正式の国宝指定名称は以下の通り。「桜楓図」のうちの「桜図」が等伯の子で26歳で没した久蔵の遺作とされている。
紙本金地著色松に草花図 床(とこ)貼付4、壁貼付2
紙本金地著色桜楓図 壁貼付9、襖貼付2 
紙本金地著色松に梅図 襖貼付4
紙本金地著色松に黄蜀葵及び菊図 床(とこ)貼付4
附 違棚貼付、袋棚小襖等 26面
紙本金地著色松に草花図 二曲屏風一双 屏風装になっているが、「大書院障壁画」と一連のものである。 
金剛経 南宋時代の書家・張即之の筆。
重要文化財[編集]
絹本著色童子経曼荼羅図
絹本著色孔雀明王像
絹本著色阿弥陀浄土図
絹本墨画滝図
紙本金地著色松に梅図 二曲屏風一隻
増壱阿含経 巻第廿九
名勝[編集]
智積院庭園 - 山は「廬山」を、池は「長江」をモデルにしている。
焼失した文化財[編集]
柳及び芦図(床間・違棚壁貼付)6面、枇杷図(襖)4面(宸殿東の間)
竹図(襖)4面、檜及び柏図(壁貼付)2面(宸殿西の間)
以上2件(16面)は旧国宝指定物件であったが1947年5月17日に焼失した。
その他[編集]
指定文化財ではないが、堂本印象が描いた宸殿襖絵が数点ある。
講堂襖絵は、日本画家・東京芸術大学名誉教授の田渕俊夫が5年の歳月をかけ制作した。

DSC_0173.jpg
で、笑ったのが次。
DSC_0174.jpg
DSC_0175.jpg
利休好みの庭園という庭園。
DSC_0176.jpg
DSC_0177.jpg
次回は、家康と秀吉所縁の神社になります。

京都・奈良 社寺仏閣巡り 5 智積院 [旅行]

前回のつづき。

DSC_0165.jpg
DSC_0164.jpg
智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院で、山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。
本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院があります。

DSC_0169.jpg

DSC_0170.jpg
DSC_0171.jpg
国宝[編集]
大書院障壁画 25面 長谷川等伯・久蔵父子の作。正式の国宝指定名称は以下の通り。「桜楓図」のうちの「桜図」が等伯の子で26歳で没した久蔵の遺作とされている。
紙本金地著色松に草花図 床(とこ)貼付4、壁貼付2
紙本金地著色桜楓図 壁貼付9、襖貼付2 
紙本金地著色松に梅図 襖貼付4
紙本金地著色松に黄蜀葵及び菊図 床(とこ)貼付4
附 違棚貼付、袋棚小襖等 26面
紙本金地著色松に草花図 二曲屏風一双 屏風装になっているが、「大書院障壁画」と一連のものである。 
金剛経 南宋時代の書家・張即之の筆。
重要文化財[編集]
絹本著色童子経曼荼羅図
絹本著色孔雀明王像
絹本著色阿弥陀浄土図
絹本墨画滝図
紙本金地著色松に梅図 二曲屏風一隻
増壱阿含経 巻第廿九
名勝[編集]
智積院庭園 - 山は「廬山」を、池は「長江」をモデルにしている。
焼失した文化財[編集]
柳及び芦図(床間・違棚壁貼付)6面、枇杷図(襖)4面(宸殿東の間)
竹図(襖)4面、檜及び柏図(壁貼付)2面(宸殿西の間)
以上2件(16面)は旧国宝指定物件であったが1947年5月17日に焼失した。
その他[編集]
指定文化財ではないが、堂本印象が描いた宸殿襖絵が数点ある。
講堂襖絵は、日本画家・東京芸術大学名誉教授の田渕俊夫が5年の歳月をかけ制作した。

DSC_0173.jpg
で、笑ったのが次。
DSC_0174.jpg
DSC_0175.jpg
利休好みの庭園という庭園。
DSC_0176.jpg
DSC_0177.jpg
次回は、家康と秀吉所縁の神社になります。

京都・奈良 社寺仏閣巡り 4 三十三間堂 [旅行]

前回の続きですが、どうも写真がジオラマ風だとうまく伝わらない気がするので、今回からは別のデータに落とした普通の写真でお付き合いください(^^;)

今回は、個人的にはその存在は知っていたけど記憶に無かった場所。

DSC_0160.jpg
DSC_0152.jpg
三十三間堂。
三十三間堂は京都市東山区にある仏堂で、建物の正式名称は蓮華王院本堂だそうです。
同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理しているそうです。
元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で本尊は千手観音であり、堂内中央にこの丈六坐像の本尊をまつり、左右の内陣にはそれぞれ十段の階段に50体ずつの千手観音立像、計千体が並ぶ、ぶっ飛んだ規模の寺院です。
もう堂内が撮影できないのが残念で仕方が無い。
DSC_0151.jpg
DSC_0156.jpg
DSC_0155.jpg
DSC_0153.jpg
三十三間堂、ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間寸法は一定ではなくその柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない。
「三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当する」として堂の全長は33×2×1.818で約120m、と説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りである(ただし実際の外縁小口間の長さ約121mとほとんど一致する)。
だそうです。

DSC_0147.jpg
でも、いいものを発見しました。
summer_2006_04_img_001.jpg
そう、JRのCMポスター「そうだ京都行こう」の一枚。
今回、このJRのCMスポットになった場所も数多く回りましたが、この三十三間堂もそのひとつでした。
でも、いつもの如く行くまで知らない僕は、行って千手観音の数にビックリだし、そもそもここに来るとも思っていなかったので、初日にこんな所に来るって事は残り3日半はどうなるんだ???と期待大ですよ。
だって、東寺でお堂の中に12体、15体安置されているだけでも迫力満点だったのに、1000体以上が一気に来るともう笑うしかないでしょ。本当に噴出しました(^^)
あのライブでお目当ての歌手だ出て来た瞬間の高揚と同じ感じ。

で、次からまたとんでもない国宝や重要文化財がわんさかお祭り騒ぎで出て来ます。毎日が国宝・重文の紹介ブログになりますので(^^)


つづく。



この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。