早春の鎌倉観光 高徳院 [社寺仏閣]
今日の鎌倉はもう誰もが知っている場所でしょう。
鎌倉といえば・・・・
そう鎌倉大佛様。国宝です。では、境内に入っていって見ましょう。
早速、何か山門付近が騒がしい感じでした。
近くに寄ってみると
なんと、山門の仁王様が建立されている所でした。
この先、この仁王様が建立されるのなんて、何十年後、何百年後でしょうから、貴重な体験でした。
境内案内板に沿って進みますと、すぐに見えてきます。
高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の寺院で、本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像、国宝です。
山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)と言います。
開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である謎めいた寺院。2004年2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定されました。
【国宝:銅造阿弥陀如来坐像】
像高約11.39メートル(台座を含め高さ13.35メートル)で、重量約121トンの巨大な阿弥陀如来坐像。
角張った、平面的な面相、低い肉髻(にっけい、頭髪部の椀状の盛り上がり)、猫背気味の姿勢、体部に比して頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されています。
また、後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点も貴重である。像は衣を通肩(両肩を覆う着装法)にまとい、浄土教信仰に基づく阿弥陀像が多く来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、本像は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結んでおり、真言ないし天台系の信仰に基づく阿弥陀像であることがわかります。
像の原型の作者は不明。鋳造には河内の鋳物師・丹治久友がかかわっていることが以下の史料から判明する。久友は、文永元年(1264年)に鋳造した大和吉野山蔵王堂の鐘銘(鐘自体は現存せず)において「新大仏鋳物師丹治久友」と名乗っており、同年鋳造の東大寺真言院鐘の銘にも「鋳物師新大仏寺大工」とある。鋳造は体部が7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて行われていることが、像の内外に残る痕跡からわかる。材質は通常「銅造」とされているが、正確には青銅(銅、錫、鉛等の合金)である。昭和34年から36年(1959 - 1961年)にかけて行われた修理・耐震補強工事の際、頭部内面から試料を採取して、電子線マイクロアナライザーによる材質調査が行われ、本像の金属組成は銅が少なく、鉛の含有量が多いことが判明した。採取部位によって差異があるが、平均含有比率は銅68.7%、鉛19.6%、錫9.3%となっている[6]。この成分比率から、本像の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたと推定されている[7][8]。なお、本像の重量(121トン)は、上述の1959年から1961年にかけての耐震補強工事における基礎データ収集の一環として、ジャッキ23台で大仏を55センチ持ち上げ、その下に秤を入れて実際に2度計量された数値の平均である[9]。鉛の比率が高いことから、像表面に鍍金(金メッキ)を行うことは困難であったと推定され、造像当初は表面に金箔を貼っていたとされており、現在でも右頬に金箔の跡が確認できる。
像内は空洞で、人が入ることができ、一般拝観者も大仏内部を見学することができる(一度に30人以上は入場できない)。内部から見ると首のくびれに相当する場所が変色している(画像参照)が、これは補強を行ったさいに塗布された繊維強化プラスチックによるものである。
鎌倉大仏殿跡(国の史跡)
今回の鎌倉大佛様で一番のお気に入りが
この金箔の残る表情・・・・。時代を感じます。
って、皆さんはご存知でしたか?
鎌倉大佛様は昔は金ぴかだったって。
鎌倉時代の繁栄を微かに残す大佛様の面影。
次回は関東でも有名なお稲荷様へと向かいます。
鎌倉といえば・・・・
そう鎌倉大佛様。国宝です。では、境内に入っていって見ましょう。
早速、何か山門付近が騒がしい感じでした。
近くに寄ってみると
なんと、山門の仁王様が建立されている所でした。
この先、この仁王様が建立されるのなんて、何十年後、何百年後でしょうから、貴重な体験でした。
境内案内板に沿って進みますと、すぐに見えてきます。
高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の寺院で、本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像、国宝です。
山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)と言います。
開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である謎めいた寺院。2004年2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定されました。
【国宝:銅造阿弥陀如来坐像】
像高約11.39メートル(台座を含め高さ13.35メートル)で、重量約121トンの巨大な阿弥陀如来坐像。
角張った、平面的な面相、低い肉髻(にっけい、頭髪部の椀状の盛り上がり)、猫背気味の姿勢、体部に比して頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されています。
また、後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点も貴重である。像は衣を通肩(両肩を覆う着装法)にまとい、浄土教信仰に基づく阿弥陀像が多く来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、本像は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結んでおり、真言ないし天台系の信仰に基づく阿弥陀像であることがわかります。
像の原型の作者は不明。鋳造には河内の鋳物師・丹治久友がかかわっていることが以下の史料から判明する。久友は、文永元年(1264年)に鋳造した大和吉野山蔵王堂の鐘銘(鐘自体は現存せず)において「新大仏鋳物師丹治久友」と名乗っており、同年鋳造の東大寺真言院鐘の銘にも「鋳物師新大仏寺大工」とある。鋳造は体部が7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて行われていることが、像の内外に残る痕跡からわかる。材質は通常「銅造」とされているが、正確には青銅(銅、錫、鉛等の合金)である。昭和34年から36年(1959 - 1961年)にかけて行われた修理・耐震補強工事の際、頭部内面から試料を採取して、電子線マイクロアナライザーによる材質調査が行われ、本像の金属組成は銅が少なく、鉛の含有量が多いことが判明した。採取部位によって差異があるが、平均含有比率は銅68.7%、鉛19.6%、錫9.3%となっている[6]。この成分比率から、本像の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたと推定されている[7][8]。なお、本像の重量(121トン)は、上述の1959年から1961年にかけての耐震補強工事における基礎データ収集の一環として、ジャッキ23台で大仏を55センチ持ち上げ、その下に秤を入れて実際に2度計量された数値の平均である[9]。鉛の比率が高いことから、像表面に鍍金(金メッキ)を行うことは困難であったと推定され、造像当初は表面に金箔を貼っていたとされており、現在でも右頬に金箔の跡が確認できる。
像内は空洞で、人が入ることができ、一般拝観者も大仏内部を見学することができる(一度に30人以上は入場できない)。内部から見ると首のくびれに相当する場所が変色している(画像参照)が、これは補強を行ったさいに塗布された繊維強化プラスチックによるものである。
鎌倉大仏殿跡(国の史跡)
今回の鎌倉大佛様で一番のお気に入りが
この金箔の残る表情・・・・。時代を感じます。
って、皆さんはご存知でしたか?
鎌倉大佛様は昔は金ぴかだったって。
鎌倉時代の繁栄を微かに残す大佛様の面影。
次回は関東でも有名なお稲荷様へと向かいます。