京都・奈良 社寺仏閣巡り 54 大覚寺 その5 [旅行]
朱色に塗られた漆の廊下、厳かでしかも華やかな感じがいい。
長い長い廊下でした。
これが、大覚寺の半全貌って感じです。少しでも行った気持ちになれて、ご紹介出来ていれば幸いです(^^)
次回は長い今回の社寺仏閣めぐり最後の目的地で、山奥に佇む世界文化遺産へと向かいます。
もう少しだけお付き合いください!!
京都・奈良 社寺仏閣巡り 53 大覚寺 その4 [旅行]
京都・奈良 社寺仏閣巡り 51 大覚寺 その2 [旅行]
前回の続き。大覚寺。
ここの枯山水も有名でして、国の史蹟になっているようです。
国宝
後宇多天皇宸翰御手印遺告(ごうだてんのう しんかん ごていん ゆいごう) - 「宸翰」は天皇自筆の意。後宇多天皇(法皇)が、大覚寺の興隆を願って書きおいた遺言の自筆草稿で、紙面に天皇の手形が押されている。
後宇多天皇宸翰弘法大師伝 - 真言密教に帰依した後宇多天皇が、自ら正和4年(1315年)に書いた弘法大師伝の自筆本。
重要文化財
正寝殿(客殿)
宸殿
絹本著色五大虚空蔵像
絹本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
大覚寺障壁画 116面(附124面)[1]
木造不動明王坐像・軍荼利明王立像・大威徳明王像(附:一夢信孝関係資料(大威徳明王像内納入)41点)
木造五大明王像 明円作 5躯
太刀 銘□忠
後宇多天皇宸翰悉曇印信口決2帖・悉曇印信文5帖(附:後宇多天皇宸翰包紙2枚)
後宇多天皇宸翰奥砂子平口決
後宇多天皇宸翰灌頂印明 6巻
後宇多天皇宸翰灌頂私注 上 正和三年奥書
後宇多天皇宸翰護摩口決
後宇多天皇宸翰伝法灌頂作法(附:深守筆伝法灌頂注)
後宇多天皇宸翰伝法灌頂初後夜供養法次第 2帖
後宇多天皇宸翰宝珠抄
後宇多天皇宸翰高雄曼荼羅御修覆記 延慶二年正月十九日とあり
後宇多天皇宸翰伝流抄目録並禅助消息3通 1巻
金剛界伝法潅頂作法
袈裟印 禅助筆
孔雀経音義 上中下 3帖
秘鈔(128巻)23結
後深草天皇宸翰消息(正安二年三月六日花押)
花園天皇宸翰消息 七月廿五日とあり
この池は特に有名で
【 名月や 池をめぐりて 夜もすがら 】という、松尾芭蕉の歌にも出てきます。先日観ていた【長七郎江戸日記】や【鬼平犯科帳】でも登場した池でした。
実は、この寺院さん、他にも有名な場所があるらしいのですが、案内板等が無く廻れることを知らずに見逃してしまいました。
多宝塔なんかも見れたらしいのですがね・・・ショックでした。
次回は、別の角度で色々な画像でご紹介します。
ここの枯山水も有名でして、国の史蹟になっているようです。
国宝
後宇多天皇宸翰御手印遺告(ごうだてんのう しんかん ごていん ゆいごう) - 「宸翰」は天皇自筆の意。後宇多天皇(法皇)が、大覚寺の興隆を願って書きおいた遺言の自筆草稿で、紙面に天皇の手形が押されている。
後宇多天皇宸翰弘法大師伝 - 真言密教に帰依した後宇多天皇が、自ら正和4年(1315年)に書いた弘法大師伝の自筆本。
重要文化財
正寝殿(客殿)
宸殿
絹本著色五大虚空蔵像
絹本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
大覚寺障壁画 116面(附124面)[1]
木造不動明王坐像・軍荼利明王立像・大威徳明王像(附:一夢信孝関係資料(大威徳明王像内納入)41点)
木造五大明王像 明円作 5躯
太刀 銘□忠
後宇多天皇宸翰悉曇印信口決2帖・悉曇印信文5帖(附:後宇多天皇宸翰包紙2枚)
後宇多天皇宸翰奥砂子平口決
後宇多天皇宸翰灌頂印明 6巻
後宇多天皇宸翰灌頂私注 上 正和三年奥書
後宇多天皇宸翰護摩口決
後宇多天皇宸翰伝法灌頂作法(附:深守筆伝法灌頂注)
後宇多天皇宸翰伝法灌頂初後夜供養法次第 2帖
後宇多天皇宸翰宝珠抄
後宇多天皇宸翰高雄曼荼羅御修覆記 延慶二年正月十九日とあり
後宇多天皇宸翰伝流抄目録並禅助消息3通 1巻
金剛界伝法潅頂作法
袈裟印 禅助筆
孔雀経音義 上中下 3帖
秘鈔(128巻)23結
後深草天皇宸翰消息(正安二年三月六日花押)
花園天皇宸翰消息 七月廿五日とあり
この池は特に有名で
【 名月や 池をめぐりて 夜もすがら 】という、松尾芭蕉の歌にも出てきます。先日観ていた【長七郎江戸日記】や【鬼平犯科帳】でも登場した池でした。
実は、この寺院さん、他にも有名な場所があるらしいのですが、案内板等が無く廻れることを知らずに見逃してしまいました。
多宝塔なんかも見れたらしいのですがね・・・ショックでした。
次回は、別の角度で色々な画像でご紹介します。
京都・奈良 社寺仏閣巡り 50 大覚寺 その1 [旅行]
遂に個人的には、最後の目的地のつもりでした。
大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある真言宗大覚寺派大本山の寺院さんです。
山号を嵯峨山と称して、本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇です。
嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院であり。後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院だったそうです。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもあり、入り口には多くの活花が飾ってありました。
時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内の大沢池や明智門などは、時代劇映画やテレビなどの撮影によく使われています。
嵯峨野の北東に位置するこの寺院は、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいたそうです。
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされていて、嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺であるそうです。
鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所とも呼ばれました。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されているようです。
亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されています。
この寺院で特に素晴らしかったのが、各部屋の襖絵でした。
もっともっとご紹介して行きますが、それはまた次回。
大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある真言宗大覚寺派大本山の寺院さんです。
山号を嵯峨山と称して、本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇です。
嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院であり。後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院だったそうです。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもあり、入り口には多くの活花が飾ってありました。
時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内の大沢池や明智門などは、時代劇映画やテレビなどの撮影によく使われています。
嵯峨野の北東に位置するこの寺院は、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいたそうです。
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされていて、嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺であるそうです。
鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所とも呼ばれました。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されているようです。
亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されています。
この寺院で特に素晴らしかったのが、各部屋の襖絵でした。
もっともっとご紹介して行きますが、それはまた次回。