京都・奈良 社寺仏閣巡り 41 番外編 奈良公園 その1 [旅行]

京都、奈良 社寺仏閣巡りも41回目。
今回は、東大寺や二月堂、春日大社、興福寺、他にも奈良県庁や博物館までもが敷地内に含まれる奈良公園をご紹介。

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興福寺のある丘の下にある大きな猿沢池。
その脇道を春日大社に向かって歩くと出てくる重要文化財があります。
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重要文化財:旧奈良県物産陳列所
まだ朝早かったので配管出来なかったので概観だけ撮影。
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長年会いたかった奈良公園の鹿。
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兎に角、鹿が沢山いました。
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登録有形文化財:菊水楼
旅館でした。沢山の人が泊まっていたようです。
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で、奈良公園で一番のお気に入りの一枚がこれ。

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可愛いでしょ、ハートが3個。


次回は、いよいよあの寺院で、個人的には奈良で最大の目的地なのです。
ではでは次回。




京都・奈良 社寺仏閣巡り 40 興福寺 [旅行]

遂に今回で京都、奈良 社寺仏閣巡りも40回目。
奈良市内に戻って、元興寺の次に向かったのが・・・

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世界文化遺産:興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。

ここで、ハプニングが!!!!
なんと拝観時間が残り30分を切っていました。
30分で、東金堂と御朱印と国宝館廻らなくてはいけない事に!!

先ずは御朱印から!

ここで、突発的な問題が!!
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何と、平成30年に落慶予定の中金堂の瓦を奉納出来るのだとか・・・。
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世界文化遺産に自分の名前が!!
一気に書くことに。しかも墨で・・・下手な字を奉納させてもらいました(^^)
で、次は東金堂の中へ。
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国宝:東金堂(写真左)
神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建した。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。東金堂はその後応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建の室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。堂内には以下の諸仏を安置していました。
国宝:五重塔
天平2年(730年)、光明皇后の発願で創建された。現存の塔は応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で2番目に高いそうです。

で、その足で走って
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国宝館へ。
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国宝館は旧・食堂(じきどう)の跡地に建てられた文化財収蔵・展示施設で、1959年に完成した。
鉄筋コンクリート造だが、外観は旧・食堂を模した寺院建築風である。食堂は1874年(明治7年)、廃仏毀釈のあおりで興福寺が荒廃していた時代に取り壊されている。内部にはもと食堂本尊の千手観音の巨像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像をはじめとする多くの寺宝が展示されている。2010年3月にリニューアルオープンし、従前に比べ展示点数が増えたほか、文化財に与える悪影響が少ないLED照明が採用されたことにより、多くの仏像がガラスケースなしで見られるようになった。現館長は金子啓明。
乾漆八部衆立像(国宝)-奈良時代の作。もと西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。五部浄、沙羯羅(さから、しゃがら)、鳩槃荼、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)の8体が揃って現存するが、五部浄像は大破して胸から下の体部が失われている。中でも三面六臂(手が6本)の阿修羅像が著名である。
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乾漆十大弟子立像(国宝)-奈良時代の作。八部衆像とともに、西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つである。当然ながら制作当初は10体の群像であったが、4体は明治時代に寺外へ流出し、舎利弗、目犍連(もくけんれん)、伝須菩提、富楼那、迦旃延、伝羅睺羅の6体のみが寺に現存する。寺外に流出した4体は、明治時代の古写真に写っているが、いずれも破損が激しい。これら4体のうち、大倉集古館旧蔵の1体(伝優波離像)は関東大震災で焼失した。他の3体は以下の所蔵先に現存するが、いずれの像も原形を留めていない。
伝阿難像(個人蔵) - 大破していた像の欠失部分を補って復元したものとされるが、詳細不明。
伝大迦葉像(大阪市立美術館蔵) - 頭部のみ残存。
像名不詳心木(東京藝術大学大学美術館蔵) - 両足先と衣の裾の部分がかろうじて残存する。[注 3]
銅造仏頭(国宝)-白鳳時代の作で、頭部のみ残っているが、白鳳文化を代表する作品。旧山田寺仏頭とも。元来、飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊薬師三尊像の中尊像の頭部で(前記)、東金堂にあったが、室町時代の火災で頭部だけがかろうじて焼け残った。(この火災により、右耳付近が大きく変形している)。この頭部は新しく作った本尊像の台座内に納められて長らく人目にふれず、1937年(昭和12年)に再発見された。この時には他に、類例の少ない銀製の仏像の腕(重文)も発見されている。
木造仏頭(重文)-廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部。鎌倉時代。頭部のほかに両手の一部、光背を飾っていた飛天像と化仏(小型の仏像)も残っている。従来、運慶の兄弟子・成朝の作とされていたが、近年、興福寺別当(住職)信円の日記の記述から、文治2年(1186年)正月に運慶によって作られたとする説が有力となっている。
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木造金剛力士立像(国宝)-もと西金堂安置。鎌倉時代。定慶作とする説もある。
木造天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝)-もと西金堂安置。大きな燈篭を、天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した、鎌倉期彫刻の傑作である。龍燈鬼像は運慶の子息である康弁の建保3年(1215年)の作で、天燈鬼も同人か周辺の仏師の作と思われる。
木造法相六祖坐像(国宝)-運慶の父・康慶一門の作。玄賓、行賀、玄昉、神叡、常騰、善珠という、法相宗の6名の高僧の肖像。南円堂の本尊の周囲に安置されていた。行賀像と神叡像は、奈良国立博物館なら仏像館に寄託。
木造千手観音立像(国宝)-もと食堂(じきどう)本尊。現在は、食堂跡地に建つ国宝館の中央に安置される[注 4]。高さ5.2メートルの巨像で、像内納入品の銘記から鎌倉時代、寛喜元年(1229年)頃の完成と推定される。この千手観音像は記録によると造像開始から完成まで4半世紀の歳月を要した。当初の造像担当者であった成朝は運慶の父康慶の兄弟子にあたり、康慶よりも正当な慶派の後継者であった。しかし成朝は病弱であったため千手観音像の制作途中で亡くなったと推定されている。その後放置されていたものが何らかの理由で制作が再開され、別の仏師の手により完成された。像の部材は制作が中止されている間風雨に晒されていたらしく、内部の木肌は酷く痛んだ状態であった。
板彫十二神将像(国宝)-平安時代11世紀半ばの作。日本では珍しい、檜板に浮き彫りにした仏像で、現在は剥落しているが、もとは彩色されていた。12面完存している。像容は誇張的にデフォルメされており、武神像でありながらどこかユーモラスな雰囲気が漂う。厚さ3cmほどの板に彫られたとは思えないほど立体感と奥行きが感じられ、特に顔や手足の筋肉は微妙な段差と起伏によって巧みに表されており、作者の高い技量を見て取ることが出来る。10世紀末期に活躍した画僧・玄朝(源朝)の図様を元に制作された。江戸期の文献には、この板彫を指すと見られる十二神将像が東金堂にあったという記載があるが、それ以前の伝来については解っていない。十二神将は薬師如来を守護し、仁和寺の薬師如来坐像の台座には十二神将を彫った作例があることから、元々は薬師像の台座側面に貼られていたと推測される。
金銅燈籠(国宝)-南円堂前に立っていた銅製の燈籠で、現在は国宝館に展示されている。平安時代初期の弘仁7年(816年)の銘があり、紀年銘のある燈籠としては日本最古のものである。火袋の文字は当代の書道史の遺品としても貴重。
梵鐘(国宝)-奈良時代、神亀4年(727年)の銘がある。制作年の分かる梵鐘としては、妙心寺鐘(698年)に次いで、日本で二番目に古いそうです。

一気見でしたけど、国宝館は十分に時間をかけて見れました。
凄すぎました!だって、国内の国宝の17%近くがこの国宝館に所蔵されているのですから!!
(※ちなみに仏像の写真は全て奈良公園内に貼られていた写真を撮影したものです)

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国宝

東金堂 
五重塔 
北円堂 
三重塔 
木造文殊菩薩坐像(東金堂) 
木造維摩居士坐像 定慶作(東金堂) 
木造四天王立像(東金堂) 
木造十二神将立像(東金堂) 
木造弥勒仏坐像 運慶作(北円堂) 
木造無著・世親立像 運慶作(北円堂) 
木心乾漆四天王立像(北円堂) 
木造不空羂索観音坐像 康慶作(南円堂) 
木造四天王立像(南円堂) 
乾漆八部衆立像 8躯(国宝館・旧西金堂) 
乾漆十大弟子立像 6躯(国宝館・旧西金堂) 
木造金剛力士立像 2躯(国宝館・旧西金堂) 
木造天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝館・旧西金堂) 
木造法相六祖坐像 6躯 康慶作(国宝館・旧南円堂) 
板彫十二神将像(国宝館・旧東金堂) 
銅造仏頭(国宝館・旧東金堂) 
木造千手観音立像(附:像内納入品)(国宝館・旧食堂) 
金銅燈篭 
梵鐘 
華原磬 
日本霊異記上巻 
興福寺金堂鎮壇具 - 1884年(明治17年)に発掘された鎮壇具の大部分は東京国立博物館の所蔵になっている。興福寺所蔵分は銀器、水晶玉など21点。
※ 阿修羅像は「乾漆八部衆立像 8躯」のうちの1躯である。

重要文化財

(建造物)
大湯屋
南円堂

(彫刻)
木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(中金堂) 
木造四天王立像(中金堂) 
銅造薬師如来および両脇侍像(東金堂) 
木造阿弥陀如来坐像(菩提院大御堂) 
木造阿弥陀如来坐像(国宝館) 
木造釈迦如来坐像(国宝館) 
木造薬師如来坐像・像内納入品(薬師経)(国宝館) 
木造仏頭(附:仏手2箇)(国宝館・旧西金堂本尊) 
木造飛天・化仏 11躯(飛天8、化仏3)(国宝館・旧西金堂本尊光背付属) 
木造帝釈天立像(国宝館)- 寺では「梵天像」と称している。 
木造梵天・帝釈天立像(国宝館) 
木造地蔵菩薩立像(国宝館) 
厨子入木造弥勒菩薩半跏像(附:像内納入品)(国宝館) - 大乗院持仏堂旧所在 
厨子入木造吉祥天倚像(国宝館) 
銀造仏手(国宝館) 
木造大黒天立像(奈良国立博物館寄託) 
木造広目天立像(奈良国立博物館寄託) - 四天王のうちの1体。残り3体は滋賀・MIHO MUSEUM(持国天)および奈良国立博物館(増長天・多聞天)所蔵。 
木造聖観音立像(弥勒菩薩立像)快円作(本坊持仏堂)
木造釈迦如来立像(1929年盗難) 
(参考)広島県尾道市(生口島)の耕三寺所蔵の木造釈迦如来坐像(1901年重文指定)はもと興福寺にあり、第二次大戦後に耕三寺に移ったものである。

(絵画、書籍ほか)
絹本著色慈恩大師像 
絹本著色慈恩大師像 
絹本著色淄州(ししゅう)大師画像 
絹本著色二天王画像 
護法善神扉絵 12面
細字(さいじ)法華経 
経典釈文断簡 
成唯識論(じょうゆいしきろん)巻十 
講周易疏論家義記断簡 
大慈恩寺三蔵法師伝 10巻 
造興福寺記 
僧綱補任 6巻
紺紙金字成唯識論 9巻 
明本抄 
延暦寺智行高僧伝 
左府抄 3巻 
金剛般若波羅蜜経 
聖徳太子伝暦 4帖 
篳篥譜(ひちりきふ) 
興福寺別当次第 6巻
宋版一切経 4,354帖 
春日版版木 2,778枚

もう下手な博物館より凄いですよ!本当に!

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夕暮れになりライトアップも始まりだした頃、3日目の社寺仏閣巡りも終了です。この日は奈良市内にホテルを取って、翌日は朝から奈良公園内の散策と最終日の社寺仏閣めぐりになります。
3日目の歩行距離は22.6㎞でした。頑張りました。

つづく


京都・奈良 社寺仏閣巡り 39 元興寺 [旅行]

唐招提寺から奈良市内に戻って最初に向かった寺院が
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世界文化遺産 
国宝:元興寺
元興寺は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。
蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となったそうです。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退してしまい今の形に。また、「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産にも登録されました。

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国の重要文化財:東門
室町時代のもので東大寺の門を移築したものでありんす。

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国宝:本堂
極楽坊本堂または極楽堂とも。寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)。この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面とする点、正面柱間を偶数の6間とし、中央に柱が来ている点が珍しい(仏教の堂塔は正面柱間を3間、5間などの奇数とし、正面中央に柱が来ないようにするのが普通)。内部は板敷きの内陣の周囲を畳敷きの外陣がぐるりと囲んでおり、内陣の周囲を念仏を唱えながら歩き回る「行道」に適した構造になっている。鎌倉時代の寛元2年(1244年)、旧僧房の東端部分を改造したもので、内陣周囲の太い角柱や天井板材には奈良時代の部材が再用されている。また、屋根瓦の一部にも飛鳥~奈良時代の古瓦が使用されている。ここに使われている古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)という。

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国宝:禅室
切妻造、瓦葺。
本堂の西に軒を接して建つ。元は現・本堂も含んで東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築したものである。正面の4箇所に板扉があることからわかるように、現存部分は4区画分で、1区画には5-8人の僧が生活していたという。本堂と同様、部材や屋根瓦の一部には奈良時代のものが残っている。なお、2000年の元興寺文化財研究所の発表によれば、禅室の部材を年輪年代測定法で調査したところ、西暦582年伐採の樹木が使用されているとのことで、事実とすれば、本建物の一部には法隆寺西院伽藍よりも古い材木が使用されていることになる。
兎に角、規模のデカい建物でした。雰囲気的には法隆寺や薬師寺の御影堂に近い感じの造りでした。

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国宝

本堂
禅室

五重小塔 
収蔵庫に安置。奈良時代。高さ5.5メートルほどの小塔だが、内部構造まで省略せずに忠実に造られており、「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定されている。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築様式を伝える資料として貴重である。かつては「小塔院」の建物内に安置されていたと伝えられる。一貫して屋内にあったため傷みが少ない。

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重要文化財

東門
著色智光曼荼羅図(板絵)
木造阿弥陀如来坐像
木造弘法大師坐像
木造聖徳太子立像 善春作

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敷地はさほど広いわけでもないけど、重厚感のある建造物と宝物館の品々は一見の価値が十分にある品ばかりでした。
いやぁ、世界文化遺産が日本にこんなにあったなんて無知とは恐ろしいものです。
昔、テレビ番組で世界遺産の紹介をしていて、どこかの国の木造の協会が小さな村にあるのを目にしました。その時何故だか分からないけど、凄く心に焼き付いて世界文化遺産やその類のものに惹かれるように・・・。
でも、どちらかというと世界自然遺産より世界文化遺産のい方が好きなのかも知れない(^^)

次回は旅行3日目最後の目的地に向かいます。





京都・奈良 社寺仏閣巡り 38 唐招提寺 [旅行]

薬師寺の奥に位置する唐招提寺。

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唐招提寺は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山である。
本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。
井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

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伽羅
南大門(1960年の再建)を入ると正面に金堂(国宝)、その背後に講堂(国宝)がある。かつては南大門と金堂の間に中門があり、中門左右から回廊が出て金堂左右に達していた。金堂・講堂間の東西にはそれぞれ鼓楼(国宝)と鐘楼がある。講堂の東方には南北に長い東室(ひがしむろ、重要文化財)があるが、この建物の南側は礼堂(らいどう)と呼ばれている。講堂の西にあった西室、北にあった食堂(じきどう)は今は失われている。この他、境内西側には戒壇、北側には鑑真廟、御影堂、地蔵堂、中興堂、本坊、本願殿、東側には宝蔵(国宝)、経蔵(国宝)、新宝蔵、東塔跡などがある。

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国宝:金堂
奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものだそうです。
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国宝:講堂
入母屋造、本瓦葺き。正面9間、側面4間。
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築されました。

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国宝:鼓楼(写真左)
金堂・講堂の東側に建つ、小規模な楼造(2階建)の建物。入母屋造、本瓦葺き。鎌倉時代・仁治元年(1240年)の建築。頭貫は端部を大仏様(だいぶつよう)の木鼻とする。西側の対称的位置に建つ鐘楼に対し「鼓楼」と称するが、この建物には太鼓ではなく、鑑真が唐から請来した仏舎利を安置しており、そのため舎利殿とも称する。
国の重要文化財:御影堂(写真右)
文化財指定名称は「旧一乗院 宸殿 殿上及び玄関」。鑑真の肖像彫刻(国宝)を安置する(開山忌前後の6月5日 - 7日のみ公開)。建物は興福寺の有力な子院であった一乗院(廃絶)の遺構で、慶安2年(1649年)の建立。

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国宝:経蔵及び宝蔵

国宝

金堂
講堂
鼓楼
経蔵
宝蔵
乾漆鑑真和尚坐像(御影堂安置)
乾漆盧舎那仏坐像(金堂安置)
木心乾漆千手観音立像(金堂安置)
木心乾漆薬師如来立像(金堂安置)
木造梵天・帝釈天立像(所在金堂)
木造四天王立像(所在金堂)
舎利容器(白瑠璃舎利壺(鑑真和尚将来舎利納入)1口、方円彩糸花網1枚、金亀舎利塔1基)

重要文化財

(建造物)
礼堂
興福寺旧一乗院 宸殿、殿上及び玄関

(絵画)
絹本著色十六羅漢像
絹本著色大威徳明王像
絹本著色法華曼荼羅図
紙本著色東征絵巻 蓮行筆

(彫刻)
木造弥勒如来坐像(講堂安置)
木造持国天・増長天立像(講堂安置)
木造厨子入釈迦如来立像(礼堂安置)
木造地蔵菩薩立像(地蔵堂安置)
木造大悲菩薩坐像(中興堂安置)
木造大日如来坐像
木造如来形立像(頭部欠)
木造薬師如来立像
木造伝獅子吼菩薩立像
木造伝衆宝王菩薩立像
木造伝大自在菩薩立像(両手欠)
木造菩薩立像(面部・左手欠)
木心乾漆菩薩立像 2躯
木造天部形立像(伝帝釈天)
木造如来坐像(伝釈迦如来、多宝如来)2躯
木造宝生如来立像
木造如来形坐像・地蔵菩薩立像・菩薩形立像(頭部欠)・天部形立像(伝梵天)
木造十一面観音立像(1900年重文指定)
木造十一面観音立像(1901年重文指定、法花院旧蔵)
木造聖徳太子立像
木造大威徳明王像
木造不動明王坐像 湛海作
木造吉祥天立像
木造行基菩薩坐像
木心乾漆仏頭(1902年重文指定)
木心乾漆仏頭(1915年重文指定)
木造菩薩頭
銅板押出三尊仏像
銅板押出仏像 5面
磚製阿弥陀如来像(伝文殊菩薩像)
(注)京都・壬生寺の木造地蔵菩薩立像(重要文化財)は、唐招提寺旧蔵。

(工芸品)
鼉太鼓縁(1915年重文指定)
鼉太鼓縁(1959年重文指定)
鉦鼓縁 (1915年重文指定)
鉦鼓縁(1929年重文指定)
鉦鼓縁 一対(1959年重文指定)
牛皮華鬘残闕(ごひけまんざんけつ)8枚分
金銅金剛盤
金銅舎利容器
金銅法具類(金剛盤、五鈷鈴、独鈷杵、三鈷杵、五鈷杵)
金銅法具類(火舎2、六器24、灑水器1、塗香器1)
金銅蓮弁飾法具(火舎1、花瓶2、六器6、飲食器2、灑水器1、塗香器1)
銅香水壺
黒漆華盤
黒漆舎利厨子
鋳銅三具足
日供舎利塔
法会所用具類(ほうえ しょようぐるい)(奚婁1口、羯鼓1口、鼓胴1口、木製楯3枚、木製柄香炉3口)
唐招提寺勅額
梵鐘

(書跡・典籍、古文書)
根本説一切有部戒経・老母六英経
戒律伝来記 上巻
四分律刪繁補闕行事鈔 巻下之三
大般若経 巻第176
大毘盧遮那成仏神変加持経
法華経(開結共)覚盛筆
四分戒本、梵網経2帖、宝篋印陀羅尼経、唯識三十頌・大乗百法名門論・般若心経 以上5帖 宝治元年書写の奥書あり 覚盛筆
瑜伽師地論 巻第38
唐招提寺一切経 宋版4,456帖、和版88帖、写本250帖、附 元版五部大乗経(内和版83巻写本29巻)269巻
令私記断簡(軍防令、営繕令、関市令)
唐招提寺文書 2巻
南瞻部洲大日本国正統図(伝香寺旧蔵)

といった感じで膨大な数の国宝と重要文化財を保管しています。

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鑑真和上御廟

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今回は一気に唐招提寺をご紹介しました。
京都、奈良の寺院に限らず、社寺仏閣は、その寺院や神社の空気が出ているものだと実感しました。
次回は、奈良市内に戻り、これまた世界文化遺産の寺院を巡ります。




京都・奈良 社寺仏閣巡り 37 薬師寺その2 [旅行]

前回のつづき。

薬師寺の境内は
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【薬師寺式伽藍配置の概念図。A:中門、B:回廊、C:金堂、D:塔、E:講堂、F:鐘楼、G:経蔵】
薬師寺式伽藍配置という配置で、中央に金堂、その手前に中門、背後に講堂を配し、金堂の手前東西に塔を置く境内になっております。伽羅配置は他に、法隆寺式伽藍配置や飛鳥式伽羅配置、四天王寺式伽羅配置があります。
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いよいよです。

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国の重要文化財:薬師寺西塔
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国の重要文化財:金堂

で、一番見たかった国宝:薬師寺東塔はというと
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平成の大修理中でした(^^;)

国宝

銅造薬師三尊像
東塔
東院堂
銅造聖観音立像 - 東院堂本尊。像高約189センチ。金堂薬師三尊像と同じく、飛鳥時代後期(白鳳期) - 奈良時代の金銅仏の代表作の1つである。国宝指定名称は「銅造観音菩薩立像」。
木造僧形八幡神・神功皇后・仲津姫命坐像-平安時代初期の作。いずれも像高30数センチの小品で、薬師寺の鎮守八幡宮の神体として作られたもの。日本の神像彫刻は仏像の影響を受けて作り始められたもので、薬師寺の三神像は日本の神像としては現存最古作の1つである。奈良国立博物館に寄託されている。
麻布著色吉祥天像 - 『金光明最勝王経』所説に基づき、吉祥悔過会(きちじょうけかえ)の本尊として制作されたもので、数少ない奈良時代の絵画遺品として貴重なものである。頭部の背後に光背(後光)があることからこれが仏画であることがわかるが、一見すると奈良時代の美人画のように見える。風になびく着衣の繊細さがよく表現されている。春・秋などに期日を限って、寺内の大宝蔵殿で公開される。
絹本著色慈恩大師像 - 中国法相宗の祖の肖像画。11世紀の作。
仏足石 - 大講堂内にある。礼拝対象としての仏陀(釈迦)の足跡を刻んだ石。側面に長文の銘があり、黄書本実(きぶみのほんじつ)が唐で写し持ち帰った仏足跡を文室真人智努(ぶんやのまひとちぬ)が夫人の追善のために写させたもので、天平勝宝5年(753年)の作と知られる。
仏足跡歌碑 - 大講堂内にあり、仏足石とともに伝来したものだが、元来一具のものであるかどうかは定かでない。高さ194cmの石碑に仏足跡を称える歌など21首の歌を万葉仮名で刻む。ここに刻まれた歌はいずれも通常の和歌より1句多い「五・七・五・七・七・七」の歌体になり、これを「仏足跡歌体」と称する。

重要文化財

南門
八幡神社社殿 3棟
若宮社社殿
板絵著色神像 6面 永仁三年三月尭儼筆 
銅造如来及両脇侍像(大講堂安置)※寺では2003年より本像の呼称を「薬師三尊」から「弥勒三尊」に変更している。
木造十一面観音立像(1897年指定、像高165.5cm)
木造十一面観音立像(1902年指定、像高191.5cm)
木造十一面観音立像(1921年指定、像高180.3cm)
木造地蔵菩薩立像
木造地蔵菩薩立像 善円作作 
木造伝大津皇子坐像
木造四天王立像3躯(附:腕1箇)
木造文殊菩薩坐像
木造弥勒菩薩坐像
木造吉祥天立像
塔本釈迦八相像残欠
東塔塑像心木 160箇
西塔塑像断片 52箇
附:塑像断片一括、木像残欠25箇、土塔1箇、和同開珎残片2箇分、硬玉丸玉1箇
木造光背残欠 
木造狛犬(獅子)一対
銅鐘(梵鐘)
大般若経 33巻
増壱阿含経 巻第五十
大般涅槃経 巻第十六 - 敦煌経、北魏時代
薬師寺枡 3口

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国の重要文化財:大講堂
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で、ひたすら歩いてここまでが白鳳伽羅区域です。ここから先が玄奘三蔵院伽藍になります。

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玄奘三蔵[げんじょうさんぞう](600または602~664)は、『西遊記』で有名な中国唐時代の歴史上の僧侶です。17年間にわたりインドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰られた経典の翻訳に専念、その数1335巻に及びます。玄奘三蔵の最も究めたかった事は、「瑜伽唯識[ゆがゆいしき]」の教えでした。その教えの流れを継承している宗派が法相宗[ほっそうしゅう]です。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たります。昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵のご頂骨を発見しました。その一部が昭和19年(1944)に全日本仏教会にも分骨されましたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安され、その後ご頂骨を祀る石塔が建てられました。薬師寺も玄奘三蔵と深いご縁のある事から、遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)にご分骨を拝受し、平成3年(1991)玄奘三蔵院伽藍を建立しました。平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿にお祀りしています。

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本当に規模の大きな寺院でした。
次は、この薬師寺から更に奥へと足を運んで唐招提寺に向かいます。


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